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           メール・マガジン

      「FNサービス 問題解決おたすけマン」

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    ★第185号       ’03−10−17★

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     母100歳

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●申し訳ない、また私事で、、

 

と、書き出し早々お詫びしなくてはなりません。 たまたまこの号の

発行日<10月17日>が母の誕生日に当たり、その日、明治33年

生まれは<満100歳>。 息子としてはコメント抜きで通り過ぎる

わけに行かないのです。

 

何せ100年に一度、いくら平均寿命が伸びて希少価値が無くなった

とは言え、満100歳の現物が身内に発生したとなると改めてウーム、

たしかに高齢化社会!

 

 

尤も本人は「何てこと無く(百歳に)なっちゃった」、年を取った気

がしない、気持ちは全然変わらない、と言う。 分かりますよ、私も

未だに学生気分。 女房も言う、「いつまでも子供なんだから、、」。 

 

母はさすが士族の末裔、骨太で動作俊敏、目配り気配り隙無し、歩く

のも速かったが、80代の初め、意識と肉体が時々連動し損なうよう

になり、ある日ドア・ノブを手前に引いたが実は未だ握ってなかった、、

で盛大に尻餅をつき、腰を傷めてしまった。

 

もうトシなんだから、気を付けなくちゃ、、と言えば、分かってるよ、

気を付けてるよ。 しかし行動習慣は無意識オートマチック、そして

意識は人格の基。 どちらもすぐには改まらない。 間もなく二度目

の尻餅をついてしまい、これが致命傷。

 

歩行器にすがれば室内の自力移動は(今も)出来るが、以後ほとんど

寝たきりの人生。 時に腰痛が激しく、人目がイヤ、で車椅子は拒絶。

幸い近くに親切な針の先生が見付かって、出前?をお願いすることに。

 

それが循環機能も助けたらしく血色良好、頭シャッキリ、「待ってる

のに、お迎えが来ない」。 霊界の父が<単身>を楽しみ続けるべく、

何か裏工作したのだろう。

 

*   *

 

40年前<スレート建築>の際、陽当たり良い和室も一つしつらえた

のだが、母は妹との生活を選んでこちらには住まず、やむなく仕送り

と月2回のご機嫌伺い。 おおむね平穏無事だったが、 

 

80、90の大台に乗った直後には、節目の儀式のような入院騒ぎを

起こし、今度はダメかも、、と覚悟させられたこと一再。 ピンチを

乗り越えられたのは、化学汚染無き時代に出来上がった体だからかも。

しかしこんどの大台では、、どうなるか分からない、

 

今のうちでないと昔のことが聞けなくなる、と気付いて見舞いの都度、

テレコ片手に話を引き出したり。 振り返れば我々、知恵の付き盛り

は戦中戦後のドサクサで、受験や仕事に追われるようになっては尚更

で、母の物語を脈絡的に聞いたことがありませんでした。

 

その始まりはラグタイム(第137号参照)隆盛の時期、扇谷正造風

に言えば、「茫々百年、、」! 江戸の名残、と言うべき世界でした。

たとえば母が少女期までを過ごした赤坂氷川町の高台からは、朝もや

の中、鶴の群が飛んで来て(今はビル林立の)溜池(なる地名の通り、

あそこは湿原だった由)で魚をついばむのが見えた、という。

 

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●10人兄弟の

 

母は下から3番目。 地元山脇高等女学校卒業後、手に職を付けねば、

でシンガー・ミシン養成所の門をくぐり、最先端的裁縫術をマスター。

銀座資生堂洋服部で働き、営業部員だった父と所帯を持つや独立。

 

今の<港区西新橋>、当時<芝区新桜田町>、狭い2階建ての借り家

で職住一体。 ずいぶん働いたがいつも貧乏だった、と母は回顧する

が、私の記憶する母は常に生き生き八面六臂、能わざること無し。

 

3人の子(私はその2番目)を(<お産婆さん>の時代、すべて自宅

で)生み、育児は女中と半々、お針子さん数名を駆使して婦人子供服

専門、オール受注生産。 父が外回り全般を担当。

 

 

母はいわば縫製チーム監督兼任選手。 その獅子奮迅の中、我が子の

教育も怠らず、私の習字を覗きに来て筆軸の上端に軽く手を添えたり。

と忽然、力強い字に化け、教室に張り出されたり展覧会に出されたり。

 

綴り方も見逃さない。 チラリと目を走らせ、即席添削、、で、学校

代表模範作文の出来上がり。▼ てな具合で本人の意志と関わりなく

優等生にさせられ、そのため悪ガキ共にイジメられてマイッタ。 が、

閑無しの親は保護者会になど出たこと無く、私の苦労を知りはしない。

親の期待に添うのも楽じゃない、と些か恨めしかった。 が、

 

  ▼本を読む根気が薄れた今も母はノートとペンを手放さず、毎日

   何か書き綴っている。 細かな崩し字なので、覗いても中身の

   察しはつかないが、ボケ防止の自主トレにはなっている模様。

 

どんなお母さん?と訊かれて、「皇后陛下みたい」と答えたそうだよ、

お前は、と母は言う。 私は全く覚えてないが、母は嘘を吐かない人、

信じましょう。 現人神天皇皇后の<ご真影>を拝んでいた時代、

 

その凛然毅然の雰囲気が、子供心に母と重なって感じられたとしても

不思議でない。 常に正しく強く、優しく、美しく、私にとって母は

神様も同然でしたから。 もちろんお針子さんたちにも、、

 

仕事が綿密で教えるのが上手い。 叱るときは厳しいが、笑わせたり

励ましたり、フォロー万全。 貧しくとも人生を楽しむことに積極的、

彼女らミーハーを率いて東京宝塚劇場、出し物が変わるたび、の恒例。

日比谷公園を横切って徒歩15分、浮き浮きゾロゾロ、、

 

  後年、私がミュージカル狂になったのは、それに付き合わされて

  いたせいかも。 母は子豚3匹を置いて出るわけに行かなかった

  だけでしょうが、思えば派手な情操教育でした。

 

  さらに後年のサーモ屋月例映画鑑賞会(第175号)も、良い案

  だと自負していたが、何だ、母の<恒例>を焼き直しただけか、、

  

そのあと暫くはそれが一同共通の話題となって当然、同時に彼女らの

ファッション感覚涵養にもつながったに違いない。 仕事場に散って

いたヴォーグの画や写真も、私の原初風景の一部だった。

 

思い出しついでは彼女らが熱読していた吉屋信子<花物語>、あれが

我が読書歴の始まりだったかも。 文字や内容の分からないところは

母に訊きながら、、 ひと味違った就学前教育でした。

 

*   *

 

母にとって最大の試練は、大東亜戦争前の数年間。 父が中国大陸へ

出征▼した時、母は臨月。 そして父が帰還すると、妹はすでに3歳。

真っ黒に日焼けした<見知らぬオジサン>に妹はなつかなかったし、

 

  ▼父にしても暗澹、「神も仏も無い、、」と痛感した由。 その

   ため戦後は、神棚も仏壇も祀らなかった。(第121号既述)

 

赤ん坊として懐に抱く機会の無かった父にはそんな妹が可愛く思えず、

それが不憫だと母は妹の肩を持ち、以来両者はさらに固く結び付いて

誰の介入も許されなくなってしまった。 これも一種の戦争災害、、

 

それはともかくその数年、母は内だけでなく外も受け持ったのだから

16面12臂。 寸法取りや仮縫い、納品、外回りに私を連れ歩きました。

アチコチのお屋敷で下町に無い眺めや空気を味わったり、の早期営業

教育。 まあ、お客も値切りにくかったろう。

 

父は本質営業マン、揉み手を惜しまなかったが、母は対照的。 製造

タイプで(生まれのせいか)気位高く、お客に対しても<凛然毅然>。

それが遙か後年、サーモ屋の<啓蒙的営業>につながったとも言える。

 

要するにどの部分も、自分ではずいぶん工夫努力したつもりだったが、

すべて原初体験の域を出ていなかったようでもある、、

 

*   *   *

 

「子は、親が言うようにはしない、親がするようにする」という説の

通り母と私、コンテンツは(当然)異なれど、プロセスの一致は歴然。

親は子の前で、オトナはコドモの前で、一挙手一投足よほど注意深く

しなくてはなるまい、と痛感します。 即ち

 

親は、オトナは、先輩は、基本的に怠惰であってはならず、すること

やその仕方が常に正しくなければならない。 その意味での実行力に

溢れた母だったし、その母に生んでもらえた私は幸運だった。 また、

その運を自分の子らにもかなりよく伝えた、と信じてもいる。

 

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●しかし近頃、

 

そういう幸せな親子関係は期待しにくくなっていますね。 某日の某

TV、<キレる親>のルポ。 室内で遊び飽きた子供がわめき、それ

に耐えられぬ若い母親は頭を抱えて床に倒れ込んで、「ヤダ! もう

ヤダ!」。 ヤダ!なんて、、じゃ、どうするの? 呆れました、

 

親自身が子供返りしてしまい、何もしない、出来ない、んですからな。

その姿を見た彼女の子が他日、<親がしたようにする>だろうと懸念

せざるを得ないが、彼女をそんな風に育ててしまった親は、いったい

どんな姿を彼女に見せていたのだろう?

 

 

例によって独断偏見の人間2大別、問題を解決する人と、問題を生み

出す人と。 ヤダ!は任務放擲、もちろん後者。 母親のあるべき姿

から大きくかけ離れ、こりゃ問題そのもの、、 しかし、

 

ヤダ!ほど拒絶的ではないにせよ、保育所に子供を預ける習慣の母親

たちにも首を傾げる。 働いて収入を得ても、保育料を払えば残りは

いくらでもなかろう。 それだけのために、子供と過ごす時間を犠牲

にすべきものか? 子供と離れていたいから働きに出る、のではある

まいか? せめて義務教育の間、一緒にいてやれないものか?

 

*   *

 

母は私にとって特別な存在でしたが、母のように家族に尽くす女性は

あの時代ザラ、特別ではなかった。 妻たちの内助に励まされ、時に

叱咤され、男どもは実力以上を発揮したのです。

 

しかし今や母性乏しい女性が激増、同時に男も冴えなくなり、そんな

男じゃ頼る気になれない、立ててやりたくもない、で女性の自立化が

一層進み、、の悪循環。 世の中すっかり索漠たるものになりました。

 

母は眉をひそめて、「困ったもんだねえ」。 困るのは多分これから

の人、お迎え間近の人じゃなかろうと思うがそうも言えない。 うん、

困ったもんだね、、 オウム返しとは我ながら情けない。

 

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一家創成期のリーダーとして素晴らしかった我が母、、 リーダーの

あり方が、、 は説教調だな、、 と考え込んでいたら(12日現在)

 

NHKTVの生放送、全国学校音楽コンクール小学校の部で我が子ら

の母校、孫たちも通う大岡山小学校が金賞を獲得。 おお、スゴイ!

 

数年前赴任して来られた音楽教諭丸山久代先生のお手柄。 子供の質

は例年たいして変わるまい、それは他校も、、とすると、大岡山小が

無名だった従来との、あるいは他校との違いは<リーダー>。

 

これぞ<成果はリーダー次第>の例証。 職場でもそうでしょうが、、

 

 

気になったのは賞杯や額を授けられた代表3名の感想。 嬉しかった、

信じられない、感動した、、 正直だろうけどジコチュウ、そこまで

自分たちを育ててくれたリーダーが全く念頭に無い、かのよう。

 

実は孫娘(今回出場資格なき小4)もその一員なので、始業前のアサ

レンや夏休みの強化練習など、丸山先生(各校のリーダーもだろうが)

が大変な時間と能力を提供して来られたことを私も知っているのだ。

 

先生のご指導で、、は難しい科白ではない。 それが出て来ないのは、

謙虚さの不足か、彼らの家庭にそういう会話が無いからか、、

 

感謝はもちろん強いるべきでないが、リーダーも人間、そんな時ふと

ムナシク感じることはある。 「みんな心では分かってはいるのよ」

と女房。 口に出るほどよくは分かってないんだろうな、、

 

そう言えば私も、一から育て上げた部下にすら正面切って褒められた

こと、不徳のなせる業だろうけど無かったな。 そうだ、母のお針子

さんたちはどうだったんだろう? こんど、それを訊いてみよう、、

                         ■竹島元一■

 

 ■今週の<私の写真集から>は ★グランド・キャニオンにて★

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